メシフクロウの雑記

メシフクロウの雑記です。文字で語りたい。

ちきりんさんの「人生の有限感」を読んで思うこと。不安に対峙しながらも生きていく

ちきりんさんのブログで、以下のエントリーを読んだ。

2010年と随分昔の記事だが、とても興味深かったので感じたことをまとめておく。

 

d.hatena.ne.jp

 

まず、わたしは人生の有限感を意識出来ていない人間の典型だと思う。

何故なら日々不安を抱いて生きているからだ。

 

「他人から嫌われるのではないか」

「失敗したらどうしよう」

「出来ないと言ったら叱られるのではないか」

「やりたいかやりたくないか全くわからない」

 

などなど、感じた内容を文字にすると4行程度では足りない。

 

脳内ではこれから自身に降りかかる可能性のある問題に対応する為、

さまざまなリスクマネジメント論争が繰り広げられる。

 

「嫌われたら、悲しいけれど、嫌われた事実を受け止めることから始めよう」

「失敗したら、また立ち上がれば良い。まずはやりたいかどうか自分を見つめよう」

 

自分を鼓舞し励ますが、

この時点でわたしは誰にも嫌われていないし、失敗すらもしていないのだ。

 

起こってもいない事柄で妄想し、一歩も足を踏み出せていないのだ。

これ程時間を無駄にする行為はないだろう。

 

 

こうして不安に駆られて足を止めた時に必ず思っていたのが、

「死んだら楽になるのに」という文言だ。

それはそれは甘美な妄想で、

死の世界に体を横たえれば、この無間地獄のような苦しみから解放される、

解放されてほしいと願っていた。

 

しかし、そんな妄想はもう出来なくなった。

以前自死について調べていた時に見つけた、自殺防止サイトに

天命を全うせずに死を選んだ場合、死後、生前より苦しい運命が待ち受けると

書かれてあったからだ。今だにこの考えを支持している。

 

jisatsudame.com

 

ちきりんさんのブログで語られている堀江貴文さんやスティーブ・ジョブズさんのように、「小さい頃に突然、人はいつか死ぬんだと意識した」と感じたとか、

大病を患って生死の淵をさ迷ったという経験は、わたしにはない。

東日本大震災の時も、揺れに「あ、もしかして死ぬのかしら」とボンヤリした恐ろしさを感じた程度で、ブラウン管ごし(あのテレビがブラウン管だったかは忘れたが)に見た津波の映像にリアルさはなかった。

 

今も昔も、わたしは死に恐ろしく鈍感だという事実に変わりはない。

しかし自殺防止サイトを見て、天寿を全うして生きていくしかないと考えるようになった。

天寿を全うするというのは、自身に与えられた天からの課題を

乗り越えて成長し続けるということなのだと思う。

 

成長し「続ける」というのが肝で、

日々不安を抱いて生きている今の現状を打破しなければいけない、

その為に行動を変えなければ、と思って今は生きている。

 

 

人生の有限感を持てたら、もっとスピーディに

迷いなく物事に打ち込めていただろうと思うが、

無い物ねだりをしてもしょうがない。

有限感がある方々も、好きでこの考えに至った訳ではないだろう。

今断言出来るのは、

自分を変えていこうと思っていられることこそが、

自分にとっての1番の幸いということだろう。

 

 

最後に、

「余命が6か月であっても、今の生活を続けるか?」

とジョブス氏は問うたと、ちきりんさんの記事にある。

 

わたしはたぶん、今の生活を続けると思う。

生まれ故郷で、旦那と、仕事をして暮らす。

家にはプルがいて、近所に家族がいて、

少し暇を作れば身近に母なる山々が連なり、

りんごの木や田んぼ、電線のない遥かな空を眺める。

 

めんどくさい事柄も多いし、

必要とされてないんじゃないか、

死んだ方が良いんじゃないかと思うことも多いけど、

この旦那とこの地で暮らせるのが、

自分の気持ちをこうして文字にして発信出来ることも含め、

何よりありがたい。

 

死ぬ時まで、少しでも自分の悲観的な感情と向き合い、

鈍感さに辟易しながらも、

今の自分を変えていきたい、と思うのだ。

 

 

ちきりんさんのこの記事は、

きっと人生の節目節目で読み方が変わってくると思う。

また忘れた頃に読み直して、自分を振り返りたい。

 

発展途上の自分と向き合いたい方、

ちきりんさんの「人生の有限感」、読んでみてはいかかだろうか。

 

d.hatena.ne.jp

 

もう1回リンクを貼ったところで、

じゃね!